マーケティングリサーチ

医師のインサイトに迫る。アストラゼネカが挑む医師理解の再定義

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  • デジタルマーケティング

この記事のサマリ

  1. 01
    デジタルマーケティングの課題

    製薬企業のデジタルマーケターは、以下のような課題を持っている

    • 医師のデジタル上の行動理解において、
      オウンドメディアにアクセスした医師の行動データだけでは偏りを避けられない
    • オウンドメディアの滞在時間やクリック率などの数値は取れるが、
      医師の閲覧意図は追いきれない
    • デジタル施策の処方への影響を評価することが難しい
  2. 02
    アストラゼネカ株式会社の取り組み

    医師のPCブラウザログデータに基づいて、多くの取り組みを実施した

    • 医師のデジタル行動実態の客観的な見直し
    • KPIの再検討
    • 行動ログから生まれた仮説を医師インタビューで検証
  3. 03
    成果

    上記取り組みにより多くの成果が生まれた

    • これまで暗黙の前提として考えていたことが実態と乖離していると判明し、
      その実態を基に施策を再設計できた
    • 医師の実際の行動実態を基にした根拠あるKPI設定が可能になった
    • ログデータによる行動仮説とインタビューによる検証により、因果推定の精度が向上した

はじめに

アストラゼネカ株式会社は、医師一人ひとりが置かれている診療環境や、日々どのような情報に触れ、何を判断材料としているのかを、より深く理解することが重要だという考えを掲げています。なぜなら、医療の現場では、同じ疾患領域であっても、医師によって向き合う患者さんの背景や治療上の課題、必要とする情報が異なるためです。そうした違いを十分に捉えないまま一律の情報提供を行っても、医師の意思決定に本当に資する支援にはつながりにくく、結果として患者さんに適切な治療を適切なタイミングで届ける機会を十分に広げられない可能性があるからです。

だからこそ同社は、医師のインサイトをより解像度高く捉えることが、より良い顧客体験の実現にとどまらず、最終的には患者さんの治療効果の最大化にもつながると捉えています。医師の関心や行動実態を正しく理解し、その背景にある意図やニーズを踏まえて情報提供やコミュニケーションを設計することで、医師にとって本当に必要な情報を、必要な形で届けられるようになる。その積み重ねが、診療現場でのより適切な治療選択を支え、患者さんにとってより良いアウトカムにつながっていく——このような考えの基、同社はデジタルを活用した医師理解の高度化に取り組んでいます。

しかし実際には、自社データやアンケートデータだけでは、医師のデジタル上の行動実態を十分に捉えきれないという課題があります。オウンドメディア上の行動は見えても、それ以外の情報収集行動は見えにくい。数値は取れても、その行動の背景にある意図まではわからない。さらに、デジタル施策が処方や治療行動にどのように結びついたのかを評価することも簡単ではありません。こうした課題に向き合いながら、アストラゼネカ株式会社がどのように医師理解を再定義しようとしているのか。今回は、カスタマーエクスペリエンス担当部門の髙嶋さんに話を聞きました。

自社データ分析の「4つの壁」

壁① オウンドメディアの来訪データだけでは偏りを避けられない

アストラゼネカ株式会社では、オウンドメディアのKPIとして、PV数・滞在時間・クリック率などの自社データを中心に分析してきました。しかし髙嶋さんは、これらのKPIには根本的な限界があることを認識していたといいます。

髙嶋さん:自社データでみえているのは、自社サイトに来訪した医師の行動に限られます。3rd Partyサイトや他社の製薬サイトなどで完結するような、自社サイトにとって未接触層の医師の行動は、完全にブラックボックスです。

自社サイトに来訪してくれる層だけを見て分析してしまうとバイアスが発生し、未接触層へのアプローチが十分にできない可能性がある、という構造的な課題がありました。

壁② 数値は追えるが、意図が追えない

数値は行動の「量」は測れても、「質」は測れません。滞在時間やクリック率が改善しても、それが医師にとって本当に意味のある変化なのかは、数値だけで判断することは困難です。

髙嶋さん:自社サイトの滞在時間やクリック率などが計測できても、閲覧の目的が症例対応なのか、学会準備なのかなど、その行動の背景や理由までは特定できないのが現状でした。

行動や理由が特定できない結果、コンテンツ改善の根拠が形式的な指標に寄りやすく、顧客の意思決定に貢献できる改善内容を特定しづらい状況でした。

そのため、指標上は改善しても「それが本当に良い状態なのかどうか」の判断基準が持てず、指標の目標設定に強い根拠を持たせることが困難でした。

壁③ 因果的な評価の制約

処方といったマーケティング上のアウトカムと、実施するデジタル施策の間には、多くの外部要因が介在します。「この施策をやったから処方が増えた」という因果を示すことは、容易ではありません。

髙嶋さん:数値だけでは「この施策をやったから処方が増えた」という因果関係がみえず、あくまで相関関係しかわかりませんでした。ABテストを行っても外部要因を除去しきれず、どの施策がクリティカルに効いたのかという効果測定ができず、再現性のある施策パターンを作るのが難しい状況でした。

さらに、これを補おうとアンケートや医師インタビューを実施しても、また次の壁にぶつかります。

壁④ アンケート・インタビューの限界

人は過去の行動を正確に再現できません。医師も例外ではなく、インタビューでは無意識のうちに「こうあるべき行動」を語りがちになります。

髙嶋さん:アンケートやインタビューを実施しても、医師は無意識に教科書的で理想的な建前の回答をしてしまうリスクがあります。過去行動の自己申告は具体性に限界があり、検索語や遷移の正確な再現は困難です。その結果、意識面の理解は進む一方で、現実の導線や瞬間的意思決定の機微までは掴めませんでした。     

また、医師の情報探索は学会の前後や新しいエビデンスの発表など、時期的な要因に大きく依存します。この時系列・文脈の欠落がインタビューでは再現しにくく、その場で記憶していることを前提にした理解に留まります。

それでいて、社内のブランドチームからは「ペルソナを作るにも、もっとリアルで生々しい行動データを根拠として活用したい」という要望が上がっており、既存の手法ではそれに応えきれないジレンマを抱えていたといいます。

PCブラウザログデータを活用して起こった変化

「ダイヤの原石」のデータが仮説と肌感覚を覆した

こうした課題を抱えていた髙嶋さんは、医師のPCブラウザログデータを活用してデジタルマーケティングを見直す取り組みを始めました。経営層やブランドチームに対してデジタル施策の意義をデータで示したい——そんな思いも重なり、新たなデータ活用に踏み出しました。

髙嶋さん:最初にデータをみたときの印象は『ダイヤの原石』でした。これまでみえなかった医師の時系列の行動や、検索意図を含む行動履歴が可視化されている。非常に情報価値の高いデータだと感じました。

従来は、「医師はこう行動しているはずだ」という仮説や経験則を前提にデジタルマーケティング施策を設計していたといいます。しかしPCブラウザログデータという客観的な事実が、その前提を大きく揺さぶりました。

「世界が180度変わった」——覆された前提

PCブラウザログデータの分析を進めると、社内で暗黙的に認識されていた前提が次々と覆されていきました。なかでも衝撃が大きかったのはWeb講演会の視聴実態でした。

髙嶋さん:これまでは「Web講演会は比較的しっかり視聴されている」「滞在時間は長いほど良い。タイムシェアを取ることが重要」という前提が暗黙的に認識されていました。しかしPCブラウザログデータを分析すると、実際にはほかの画面で調べ物をしているなど、多くの医師がWeb講演会を『ながら視聴』している実態が明らかになりました。

データを分析するうちに、自社コンテンツが想定ほどみられていなかったという事実も浮かび上がりました。しかし髙嶋さんは、その事実を直視したことでコンテンツ設計を根本から見直すことができたと語ります。

根拠あるKPI設定が可能になった

PCブラウザログデータがもたらした変化は、コンテンツの見直しだけにとどまりません。これまで設定が難しかったデジタル施策のKPIを、ロジカルに根拠を持って定義できるようになりました。

髙嶋さん:例えば滞在時間を長くすることをKPIにすること自体、医師の行動実態に合っていなかったのかもしれません。ログデータを基に実態に即したKPIを設定できるようになったことで、より意味のある目標が立てられるようになりました。また、なぜこの施策が必要なのかを感覚的な説明ではなく、PCブラウザログデータに基づく実態をもって、経営層に説明が可能になった点も大きな変化でした。

このようにPCブラウザログデータを参照することで、感覚的な説明でしか語れなかった施策の価値を、実態に基づいて示せるようになることは、現場のマーケターにとって大きな変化です。

PCブラウザログデータ×インタビューで、仮説検証が可能になった

髙嶋さんがさらに評価しているのが、PCブラウザログデータをインタビュー調査と組み合わせることで生まれる相乗効果です。

髙嶋さん:PCブラウザログデータで行動の実態がわかると、インタビューで聞くべきことが明確になります。ログ上で得られた事実としての行動に対して、その理由の仮説を想像し、その仮説をインタビューで直接確認できる。実際の行動に基づいた仮説からの問いかけができるので、回答の信頼性が大きく上がります。

この組み合わせによって、「施策と結果の因果関係」をより確度高く捉えられるようになります。髙嶋さんはこの取り組みを通じて、意思決定のスピードと質を同時に高めることを目指しています。

今後の目標 インサイトを「処方に届く施策」へ

医師のインサイトはみえたがそれだけでは十分ではない

PCブラウザログデータの活用によって、医師がどんなテーマに関心を持ち、どんな情報に接触しているかが、これまでになく具体的に把握できるようになりました。しかし髙嶋さんは、それだけでは十分ではないといいます。

髙嶋さん:マーケティングの最終的な目的である「適切な患者さんに、適切な治療を届ける」ためには、医師の興味関心だけでは依然として情報が不足していると感じています。
医師の興味関心がわかっても、その医師が実際にどんな患者さんを診ているのかは、現時点ではまだ十分に捉えきれません。デジタル行動と患者背景の間のギャップを埋めることが次の大きな課題だと思います。

目指すのは、マイクロセグメンテーションによる個別最適化

髙嶋さんが最終的に目指しているのは、医師のデジタル行動(興味関心)と、治療している患者さんの特性(臨床的背景)を掛け合わせたより精緻なセグメンテーションです。

髙嶋さん:単に関心テーマで医師を分けるのではなく、どんな患者さんを診ている医師に、どんな情報が必要なのかという視点で施策を設計したいと思っています。マイクロセグメンテーションをした上で個別化の施策を打てれば、初めて先生方への本当のエンゲージメントが実現できると考えています。

データを活かす鍵は「伴走してくれるパートナー」

PCブラウザログデータなどの素材だけでなく、高度なデータウェアハウス基盤も導入され、課題を深く分析できる環境は整いつつあります。しかし髙嶋さんは、データが揃うことと、使いこなすことは別の問題だと指摘します。

髙嶋さん:どんなに良いデータがあっても、ビジネス理解とデータリテラシーが追いついていなければ活かせません。単なるデータ納品にとどまらず、中立的な立場から事実に基づいたデータを提供しつつ、社内メンバーがそれを使いこなせる状態まで伴走してくれるパートナーの存在に価値を感じています。

髙嶋さんが目指すのは、PCブラウザログデータ、調査データ、現場情報——これまで別々に扱われてきたデータを一元化し、自動的にPDCAサイクルを回せる環境の実現です。その実現に向けて、データ基盤の整備や生成AIの活用も視野に、髙嶋さんの挑戦は続いています。

仮説を持ってデータに向き合う

マーケティングにおける「顧客理解」は永遠の課題ともいわれます。アストラゼネカが示したのは、その突破口となる、データと仮説を組み合わせたアプローチです。

「感覚的な施策」から「根拠のある意思決定」への転換を目指す製薬会社のデジタルマーケター・DX部門の方々にとって、本記事が一つの参考になれば幸いです。


本記事における注釈

「PCブラウザログデータ」:参加に同意した医師のPCブラウザ上のデジタル行動(閲覧サイト・検索ワード・遷移経路・滞在時間など)をパネル調査形式で収集したデータ。診療科・年代・病床数などの属性情報と紐づけて分析できる点が特徴。本記事では外部の調査会社が提供するパネルデータを指す。

「調査会社」:医師のPCブラウザログデータおよびシンジケートデータを保有・提供する調査会社。プロモーション支援を行わない中立的な立場からデータを提供している。